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一 夢 庵 風 流 日 記

特別攻撃隊 ~特攻隊~

日本はかつてアメリカと真っ向勝負し、敗れた。

その中で、戦争末期に「特別攻撃隊」というある意味特殊な作戦が実施された。

20歳前後の若き青年たちが、そのときどんな気持ちだったのかは私のような者には見当もつかない。

口を開いても軽々しくなるだけで、逆に失礼にあたるであろう。

国を思い、家族を想い、立派に戦死した隊員たちに哀悼の意と敬意を表す。



<特別攻撃隊>

特攻隊とは爆弾を装備した飛行機や潜行艇などに乗った搭乗員が、敵艦などに体当たりして攻撃を行う特別部隊のことである。
特攻隊というと航空機による神風(しんぷう)特別攻撃隊がすぐに思い浮かぶであろうが、それだけではないことを知っておかねばならない。

航空特攻を
・陸軍では「と号」作戦という。
・海軍では「神風特別攻撃隊」と呼ぶ。

*水中特攻「回天」とは、“天運挽回”、傾いた形勢をもとにもどすという意であり魚雷に大量の爆薬を搭乗し、隊員自らが操縦して敵艦に体当たりするという特攻

ここでは航空特攻について書いてみたい。

日本陸海軍による組織的な航空特攻は1944年10月21日のレイテ沖海戦での海軍・久納好孚の出撃からはじまり(通史では同年10月25日の海軍神風特別攻撃隊敷島隊・関行男による特攻が最初とされている)、敗戦の日の8月15日までの全日数299日、内147日間にわたり実施され、戦死者数は海軍2500人前後、陸軍1500人前後、計4000人前後。

前書きの最後として、ここにひとつのエピソードを紹介させていただく。

以下は作家:山岡荘八(この頃は報道班員)が特攻隊員:西田高光中尉:当時23歳に禁句であった「この戦争に勝てると思うか?もし負けても悔いはないのか?」などと質問をしたときのことである。

「いま、ここにいる隊員(出陣学徒)は、みな自分から進んで志願してきたもので、いずれも動揺期は克服しています。学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、そのあとどうなるのでしょう・・・おわかりでしょう。我々の生命は講和の条件にも、そのあとの日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに・・・・・」(第五筑波隊長:西田高光中尉)。



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                         写真は加世田で出撃を待つ第72振武隊の少年飛行兵達



<特攻隊員の遺書>

遺書に対し、当時は「本音」が語られることはないとして遺書を分析対象外とする人間がいるが、これは的外れだ。
私的な文書である限り、行間や所々に出撃瞬間の心情が吐露されていると考えて差し支えないと考える。

遺書を読むと、大まかに分けて次の5パターンに分かれる(重複も可)

1)皇国思想   天皇陛下への忠誠、愛国心 「天皇陛下万歳」
2)特攻思想                「男子の本懐」「誇り」
3)家族愛    家族、肉親への愛     「お父さん お母さん」
4)近隣愛    恩師、近隣者、友人への思い
5)風土愛    祖国やふるさとへの思い 将来への憂い

遺書に占める内容の割合は、2の特攻思想が5割ほど、続いて3の家族愛が3割ほど、他は10%にも満たない程度であった。
特攻思想は攻撃である、家族愛は守備である、この二つを結びつけるものは愛するものを守るために攻め寄る敵方を倒すという思想なのだ、特攻隊員たちはそういう心境に至ったといえるのではないだろうか。
また、特攻隊員は年齢20歳前の若い隊員もいれば、まれではあるが30歳前後や結婚していた隊員も存在した。この人生の幅により遺書として残す内容もばらついてくると考えられる。

年齢は様々であるが、彼らはいずれも相当難しい試験、もしくは選考を経て空中勤務者になっている、徴兵による召集や学徒出陣による強制入隊もあるが、空中勤務者への転科は強制ではなく志願である。
しかも志願者全員が空中勤務者になれたわけではない、狭き門が待っているのだ。
よく映画や書物で「パイロット」に憧れる軍国少年が出てくるが、実際、かなりの人気があったことは確かだ。

ここでひとつ注意が必要だ、陸軍少年飛行兵と海軍飛行予科練習生はほぼ同等の立場なのであるが、遺書に関しては、海軍飛行予科練習生のものが極端に少ない、これは「白菊特攻隊」(光人社)に記載されているのだが、士官とその他ではかなり待遇に差があったようだ。海軍はリベラルというイメージのもとに自由な気風が漂う軍隊と考えがちだが、陸軍は遺書は自由に残され、海軍はかなり不自由だったことがわかる。



<特攻隊は志願か命令か>

まずは志願説から。
陸軍中央部内での特攻の編成方法をめぐる論議。

・特攻戦法を中央が責任を持って計画的に実行するため、隊長の権限を明確にし団結と訓練を充実できるように、正規の軍隊編成とすることが必要であるとするものである。(甲案)

・特攻要員と器材を第一線兵団に増加配属し、第一線指揮官が臨機に定めた部隊編成とすべきであるとするものである。それは、我が国の航空不振を第一線将兵の生命の犠牲によって補う戦法を、天皇の名において命令することは適当ではないとするものである。(乙案)
            「陸軍航空特別攻撃隊史」生田惇より

陸軍は乙案を選択したのであり、陛下の命令なき作戦は、各部隊で話し合われ志願という形に落ち着いていく。
これを完全志願ということは難しいであろうが、概ね志願であるとは言える。
前掲の生田氏の本には「志願」と「命令」を次のように結論付けている。

当時の状況下で、志願者を募ったならば、恐らくほとんどの者が志願したであろう。当時は、そのような雰囲気であった。しかし人は、それぞれの生活環境や性格により生命に対する執着もさまざまである。そして同一人であっても、その時により、そのおかれた環境によっても気持ちは大きく変動するものである。ここに、大きな問題を生ずる要素があった。特攻隊員の選出は、志願によったか、命令によったかを一々史的に論証することは困難である。しかし大局的に見るならば多くの問題はあるが、志願によったというべきであろう。

*生田惇・・・陸軍士官学校出身、敗戦時は陸軍航空士官学校区隊長である。


1945年3月初め頃、爆弾を抱えて飛行機ごと敵に体当たりする特攻隊志願について「熱望」「希望」「希望せず」の3種類の意思表示を紙片に書いて提出を求められた我々は、別に唐突のこととも、恐ろしいこととも思わなかった。危機が迫っている戦況のことを考えれば、飛行機操縦者である我々には、ただ来るべきものが来たなという思いだけであった。黙って死を待つよりも、単調な飛行機訓練よりもむしろ、早く実戦へとの願望のほうが強かった。しかも、訓練実績のない我々に、これ以外にどんな戦法が可能だったのかと考えれば、もはや特攻は止むを得ないことでもあった。

*特攻隊の生還者である松浦喜一氏の証言。


宴会の食卓はなかなかにぎやかであった。
酒も手伝って口が軽くなっていたせいもあろうが、私(猪口)の前にきた搭乗員は
「私はいつ出撃するのですか、早くしてくれないと困ります」と言う。中には
「私は1番早くから特別攻撃隊員になっているのに、後でなったものがもう先にいっています。一体いつまで待てばいいんですか?」などと、脅迫するものまで現れる。私は散々いじめられて困り果てた末に、とうとううまい口実を見つけ出した。
「桜井の駅では大楠公が小楠公を河内の国の母のもとに帰したわけを知っているか?先になろうと後になろうとみんな祖国のためだ、しかも特攻隊は世界平和がくるまでは、後から後からいつまでも続くだろう。それを思えば、お前たちは先陣中の先陣ではないか! だから2,3日ぐらい遅れたからと言って、あまり文句をいうな」すると彼らは頭を掻きながら
「飛行長の言われることはわかります、・・・しかし、やっぱり大楠公になる方がいいですよ」とニコニコ笑うのであった。

*猪口力正軍令部参謀、中島正723航空隊飛行長の比島における神風特攻隊より抜粋


次に命令説を見てみる。

しかし、神風特攻隊は一部の志願者による特別な行為であって、他人事としか考えていなかった。だから、自分自身が「体当たり攻撃」を実現する立場に立たされるとは夢想もしなかったのである。ところが艦隊参謀の説明によれば、全保有機で「特別攻撃」を編成するというのである。これは志願者を募るのではなく、飛行機をそのまま「特攻隊」に編成替えして「体当たり攻撃」を実施することらしい。

*第10航空艦隊白菊攻撃隊永末千里氏より

特攻を募られれば一も二もなく一歩前に踏み出したであろうことは、疑うべくもない。それほどに私は、日本のため、国民のために、勇躍命を捨てることの出来る少年だったのである。
私は、特攻を、心から志願したのであろう。

体当たりをやってくれるか、と聞かれて、致しません、と答えることの出来る者はほとんどいないであろう。手を挙げてくれ、といわれれば、意志の有無にかかわらず、卑怯者と誹られたくないため一斉に手が挙がるであろう。

*陸軍航空士官学校出身者 飯尾憲士氏より



このようにいろいろ意見は割れているのが実情だ。

命令か志願か?この答えはおそらく出ないであろうが、重要なことをひとつ言っておかなくてはならない。

戦後の教育やおかしな本に、「特攻隊員は操縦席に縛り付けられ、国に殺された。」というような風評が立った、これは米国が流したデマなのだが、いまだにこのような風評が息づいているのは嘆かわしいばかりだ。

逆に志願説で記した例にあげた特攻隊員は前日や前々日には、竹やぶに入り日本刀を振り回したり大声で叫んだり泣いたりしている、特攻当日は憑き物が取れたような姿をみせ、清々しい姿で散っていった隊員たちだって、やはり悩み苦しんだことは事実である、それは認めねばならないのだ。

一連の流れで見えるのは、「志願説」は、元軍人や特攻生還者に多く、「命令説」は、ジャーナリストや評論家に多い。
これは外国の文献にもあてはまる、軍関係である米軍戦略爆撃調査団は「志願」であるし、ジャーナリストのD・ウォーナーは「命令」となっている。


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                            神風特攻隊の戦果を伝える当時の新聞



<特攻とテロリズム>

ここで特攻とテロを対比させることは、理解している方からすればお叱りを受けるであろうが、米国の9.11テロのときに米国では特攻と同一視したマスコミ論調が巻き起こり、それに乗じた日本のマスコミ、一部のジャーナリストまでもが特攻をテロと決め付けた報道やコメントを出した。

こういう事実がある以上、やはり違いを整理しておくべきであろうと考える。

1.大量の組織的「体当たり」攻撃は存在せず、少数者による局地的な場面での咄嗟の判断による「体当たり」特別攻撃の事例は多くあった。爆弾を持って敵戦車にぶつかる、下に潜り込み自爆、これは戦闘中の確実な敵殲滅作戦として咄嗟に起こした行動である。

2.日本軍の空中勤務者や搭乗員には「自爆」という独特の作法が存在した。
自機が被弾した場合は敵機が近くにいれば、それに体当たり等をしたが、何もいなければ、自ら山海に全速で自爆した、そういう作法があった。

3.敗戦近くなると、熟練空中勤務者は残っておらず、搭乗員は新米が増える。彼らが米軍と互角に戦うのは非常に厳しい、その中で攻撃作戦が限定されていき、確実な戦果を収める方法は体当たりとなっていく。

特攻とは経験側による体当たり効果の実例、日本軍の「自爆」作法、錬成未修の空中勤務者や搭乗員にも可能な切羽詰った攻撃、という三位一体の中で編出された唯一効果が期待できる、最後の攻撃方法として採用されたものであろう。

ではイスラム急進派のテロと旧日本軍の特攻はどこが違うのか?
前者は平時における無差別攻撃だ、すなわちテロリズム、後者は戦時における軍事目標に限定された攻撃である。すなわち軍事行動である。

「我敵艦に突入す」平義克己氏の本から引用しておこう。

「ワールドトレードセンターへのテロ攻撃と我々が経験した体当たり攻撃とを一緒にしてもらっては困る」一人が強く反発した。
「9.11テロはカミカゼ攻撃なんかではない」別の声が聞こえた。
「我々は当時戦争をしていたのだ。戦争とは、殺すのと、殺されるのが仕事なんだよ。もちろん、相手より自分が先に殺すほうがいい。ワールドトレードセンターへの体当たりは、単なるテロリストの仕事だよ。我々、軍人の戦闘とはまったく違う。」ラムが言った。
「我々を殺すのがこのカミカゼパイロットの仕事だったんだ。彼の、任務であり、命令だったんだよ。我々は彼を撃ち落とすのが任務だった。我々も機関銃を撃ち命中させたが、撃墜させられなかっただけなんだ。200ノット(時速370キロ)以上のスピードで体当たりしようとする飛行機を撃ち落すのが、どれだけ難しいかわかるかい? 35ノットで動き回り、機関銃を撃ち続ける駆逐艦に体当たりするのも大変なことだろうと思う。動きもしない、それも何も反撃してこない建物に、旅客機を突っ込ませるのとはわけが違う。」
私は彼らのプライドを痛切に感じた。敵味方と側は違うが、同じ戦争を戦ったというプライドが、一般市民を巻き込んだテロ事件と同じように見られたくないと言っているようだった。私は、戦争とはお互いに殺しあうことなのだという、彼らの定義を否定することは出来なかった。
「この日はたまたま、パイロットが我々より一枚上手だったけど、その前には我々だって何機も撃ち落しているのだから、いい勝負かな」

これは9.11テロとカミカゼを味わったアメリカ人の発言である、それだけで十分ではないか。



<鳥浜トメさん>

特攻基地知覧の富屋食堂の経営者であった人、1902年6月20日、鹿児島県川辺郡坊津町生まれ。
知覧が特攻基地となったのは1945年の3月、そして富屋食堂は陸軍指定食堂であった。
彼女が特攻隊員と過ごし始めるのは43歳から、20歳前後の隊員からすればちょうど「母さん」の年齢であろう、彼女は私財を投げ捨て彼らを親身に世話した、それは時には軍に睨まれ、憲兵隊に拘束され拷問に近い叱責を受けたのだった、理由は「特攻隊員を甘やかしすぎ」・・・。

ここでいくつかエピソードを紹介する。

中島豊蔵(軍曹 少年飛行兵 20歳)は、捻挫した左腕を操縦桿に縛り付けて6月3日に出撃している。中島は訓練生の頃、知覧でトメの世話になっていた、そして特攻隊員として改めて知覧に着任したとき、トメの顔を見て懐かしさのあまり車から飛び降り、腕を捻挫したのであった。
風呂にも入れない中島を、トメは自宅の風呂場で背中を流してやっている。
そして、捻挫しているにも関わらず、どうしても出撃すると言ってきかない中島の背中を流しながら涙している。
このときの情景をトメは、後に次のように言っている。(相星雅子「華の時が悲しみのとき」より引用)

あたいが風呂をたてっくれたや、久しかぶいじゃち言て入ったがな、腕が痛かったでな、背中を擦っくれたたったが、中島さんな、威勢のよかこっぱっかい言ちょたどん、腹でな泣ちょったとおはら。分かったどお背中を見ちょればなあ。ほかん衆もたくさん擦っくれたがなあ、みんなじゃったど、あっち向っせえ顔を洗ろともおったがな、みんな背中が泣ちょったが。


続いて、宮川三郎(伍長 航空養成所 20歳)の「ホタル」の話。

宮川は出撃前日の6月5日に富屋食堂を訪れている、そして「明日出撃だ」と上機嫌であったという。
彼はトメにホタルになって還ってくると言っている。
出撃の6月6日の夜、一匹のホタルが富屋食堂に飛んできて、富屋食堂は大騒ぎになったという。
富屋食堂に飛んできた「ホタル」は、しばらくして富屋の食堂を飛び去っていった、何処へ行ったのだろうか、トメは「そんた、わが一番戻いたか所お、我が家ん在っ所の山やったい川やったい」と言ったと相星雅子「華のときが悲しみのとき」には書かれてある。

ホタルは故郷に還っていったと鳥浜トメさんは言っているのだ。

トメさんの特攻隊員への詠歌

      「散るために

              咲いてくれたか さくら花

                              散るほどものの見事なりけり」

                                  鳥浜トメ


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                              写真は特攻の町 知覧の平和の鐘


国家は仲が良くなることが一番いい。

しかし、国境がある以上、99%安心できてもわずか1%「もしや・・・」と

思わせるものを持っていなければならないと思う。

それはなぜか 無抵抗なために植民地にされた多くのアジアの国々

人種差別撤廃をはじめて国際連盟の場に提示した日本

アメリカがいまでもアジアの中で唯一日本にある種の恐怖をわずかでも持っている理由は、

特攻、玉砕精神を見せ付けられたからなのだろう。

戦前戦後で日本は大きく様変わりした、果たして特攻隊員たちは今の日本を見て、

命を賭して戦った甲斐があったと褒めてくれるだろうか、疑問である。


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2005年10月20日現在 投稿

注)無断転載を禁ず。

参考文献
相星華子「華のときが悲しみのとき 知覧特攻おばさん鳥浜トメ物語」
防衛庁戦史室「戦史叢書」朝雲新聞社
神坂次郎「今日我生きてあり」
戸部良一他著「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」ダイヤモンド社
生田惇「陸軍航空特別攻撃隊史」
猪口力/中島正著「神風特別攻撃隊の記録」
今井健嗣「元気で命中に参ります」
平義克己「我敵艦に突入す」
デニスウォーナー「ドキュメント神風 上下」
ベルナール・ミロ「神風」
飯尾憲士「開聞岳」
海軍飛行予備学生第14期会編「ああ同期の桜 かえらざる青春の手記」


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